2023年3月29日水曜日

第20回統一地方選~なぜ無投票当選が多い、それをどう診る


 

20回統一地方選~なぜ無投票当選が多い、それをどう診る

はじめに

戦後20回目の統一地方選、知事選、政令市長選は既にスタートしているが、3月31日に道府県議選も始まる。事前の調査によると、今回の道府県議選でも無投票当選が定数2260の26%くらいとなり、過去2番目の割合になる見通しという。新議員の4人に1人が審判を受けないことになる。前回(2019年)の無投票当選率は27%で、ほとんど変わっていない。1人区の無投票当選者は約54%と半数を超える状況だ。党派別でみると、無投票当選者は自民党系が408人と野党勢力に比べ、圧倒的に多数である。

こうした選挙の洗礼を受けずして代表の地位に就く動きを私達はどうみたらよいか。

1.無投票当選が多い現状を打開するために何をすべきか

なり手不足を解消するためにはどのような制度改正が必要か。現在議論されているのは、在職したまま立候補できる制度の創設、議員との副業・兼業を可能にする制度の創設、産休・育休制度の導入や託児所整備など女性議員を増やす取り組みの推進、議員定数の削減、1人区解消による政党の競い合いの促進などだが、それ以上に何かあるのか。

👉少なくも県議選の4人に1人が無投票当選とは(26%)。由々しき事態だ。しかも1人区は54%が無投票当選ですか。しかも1度当選するとずっと同じ方で無投票が続く傾向があり、他の民意は抹殺されている。無投票当選は“無競争”当選を意味する。競争がない、論争がない、選択肢がない、マンネリなど弊害はいろいろ。

第20回統一地方選~なぜ無投票当選が多い、それをどう診る公職選挙法第100条で、「立候補の届出のあった候補者が一人であるとき又は一人となったとき、「投票は、行わない」すなわち無投票当選とすることを規定している。国、地方の選挙を規定した公選法がこう規定しているので法改正をしないと廃止はできない。

がしかし、1票も得ず、1票も入れた覚えのない人が「代表」の地位に就き、公共の意思決定に携わる。こうした選挙の洗礼を受けずに4年間住民の代表に就くという意味が、よく考えると不思議な感じがする。すなわち投票とは何か、代表とは何かという点だ。

首長と議会が自治体としての意思を公式に決定できる権限をもつのは、選挙を通じて民意の審判を受け、代表者であるとみなされるからだ。「みなす」というのは、1つの擬制(フィクション)。もともと違う人間が別の人間の意見や利害を代わって表現することはできないが、代表という考えは、本来できないことを約束事として、そうみなそうという工夫なの だ。この擬制を現実に可能にしているのが投票箱である。地域社会の諸問題に関して知識や判断力では不揃いな有権者が投ずる一票が、あの何の変哲もない箱を通過すると、神聖な一票に変わる。いわば投票箱は「民の声」を「天の声」に変えるマジックボックスだといえる。

 もともと「民の声」すなわち地域住民の意思は、あるにしても眼に見えない。この眼に見えないものを見えるものに変える手続きの1つが選挙であるという風にみることができる。民意は、有権者に支持を訴えて当選した人物あるいは人物の色分けと分布によって眼に見えるようになるわけだ。この意味で、代表というのは「民意」を生身の人ないし人の数で表すという擬制を前提に成り立っている。したがって、この投票箱の管理にあたる「選挙管理委員会」は、厳正・中立でなければならない。

無競争当選は選挙管理上、例外中の例外として便宜上認めた制度にすぎす、当選者に政治的正当性はない。なぜなら1票も得ておらず、1票も有権者は入れていないからだ。

さて、この状況を変えられるか。もし、このまま無競争当選が増えていくなら、再選挙を行うなど選挙管理の仕組み自体を変える必要が出てくる。選挙管理上、例外として便宜上認めた無競争当選という制度が最近のように一般化してきたら、議会制民主主義の根幹を揺るがす事態として再検討すべきである。

 

 この事態を打開するためにどうすべきか。政治家からは答えは出てこないはず。なぜなら、これほど便利で都合のよい仕組みはない筈だから。法改正にも反対しようが、しかし、国際的に説明できない。日本は民主主義の国だと言えるか、とてもそうは言えまい。 

1つの解決法は、制度の廃止、そして再選挙のルールをつくること。選挙が行われるまで何度でも再選挙する。最近話は違うが品川区長選で6人が乱立し規定投票数を超えた者が出なかったので再選挙にした。2度目も危ないと言われたが、有権者は少し動いて当初のトップ票の者が票を上積し当選させた。つまり有権者は学習したということ。

2つめは、なり手の裾野を思い切って広げること。候補者が出てこない理由はいろいろ

るが、最大の理由は8割を占めるサラリーマン(勤め人)を事実上、被選挙者の母集団から排除していることだ。それは議会の(公式な)活動時間帯が役所の勤務時間と同じになっており、サラリーマンのそれとも同じになっていることだ。議会の開催時間帯(曜日も含め)を変えない限り、自営業者、無職者(定年退職含む)、主婦、非正規労働者しか事実上被選挙権者ではなくなっている。

 日本の場合、アメリカのように議員は保険代理人などを営み、時間的な自由度、生活の糧を得ながら議員をやるという風土は希薄なだけに、労働報酬(議員報酬)と言いながら、それに生活費を含めた給与相当の報酬を要求する動きとなる。すると議員は「職業」と錯覚する。なった以上、その地位を死守しようとする行動に出る。例えば多選を禁止すると(3選12年まで)、他の競争のチャンスが生まれる。がそれも阻止しようとする。

 となると、議員として公式に活動できる時間帯を「5時から議員」とでも表現しようか、オフタイムと土日を使っての議員活動がメインとなるよう変えるしかない。仮に4年間休職できる制度をつくっても、雇用主が形式上OKしても、周りの社員は理解せず、結局、産後の女性が元の職場に戻ろうとしても(制度上認められていても)、実質上ポストがなくなっている、という状況と同じになろう。

3つめは、5割以上が無競争当選になっている1人区を廃止することだ。衆院の小選挙区が独占区の弊害を持つのと同じ構図が県議選で生まれている。大義として定数削減で増えた1人区だが、離島など余程の条件不利地域でない限り「1人区」廃止とし選挙区を見直することだ。これに自民系は抵抗しようが、選挙制度審議会を開き諮問、答申を経て法改正案をつくるべき。すると理屈上無競争がよいと表立って主張できる根拠はなくなる。

4つめは、多選禁止条項をいれること。312年以上、同じ人が同じ選挙区で代表を務めることを禁止するのだ。政治ポストを既得権化し、利権化することを防止すると共に、新しい代表が生まれるチャンスを広げることになる。地方自治は民主主義の学校。ここでの実験がうまく行くなら、国政選にも、首長選にも導入することだ。これは意外によい。

5つめは、無競争選挙区は改めて有権者を対象にして「抽選」(くじ引き)で地区代表を選ぶ、抽選民主主義の考え方を入れてみたらどうか。もともとギリシャの樫の木の下の民主主義の考え方は、交代制を前提に誰でもなれる、誰でもやれる、を前提に抽選で始まった。政治を、政治ポストを既得権化しないための措置でもある。これで民を驚かす!

勿論、いま議論されている①在職したまま立候補できる制度の創設、②議員との副業・兼業を可能にする制度の創設、③産休・育休制度の導入や託児所整備など女性議員を増やす取り組みの推進は続けるべきだが、無競争当選を阻む措置としては効果が限定的かと。

 2.国や地方議会は無投票当選にどのように向き合うべきか

 政府の地方制度調査会は昨年12月、議会改革の答申をまとめたが、地方側が求めた会社員らの「立候補休暇制度」の法制化は見送った。議員との副業・兼業を可能とする制度創設なども企業に対し自主的な取り組みの要請に止まった。岩手県議会は昨年7月、三つの1人区を解消する新たな区割りを決めた。ただこうした地方議会の動きは他にない。

👉先述の内容と重なるが、なり手不足の解消が先決だと考えると、まず女性議員をどう増やすか、その条件整備が不可欠と考える。先進国ワーストワンの女性議員比率は日本の後進性の現れ。例えばストップホルム議会にいってみると、議場は51議席が女性、49議席が男性の議席と決まっている。概ね議長も女性から出る仕組み。理由は単純。有権者、住民の男女比を「鏡のように反映するのが議会」、住民自治の砦だという理解からだ。 この理屈を即日本に入れるのは、女性のなり手訓練が十分でない現状からしてすぐには「候補者発掘」に戸惑うと思うが、少なくもクオター制(割り当て制、例えば最初2割、次の3割、4割と次第に増やしてく方式)を入れることだ。いま唯一、23特別区の区議が女性比率が3割を超えている。理由は報酬が高い(@1000万円)、匿名社会、しがらみながい、キャリア志向が強い、政党の勧誘機会が多いなどが挙げられるが、この理由を他の地方に当て嵌めてみても、女性比率が上がるとは思えない風土がある。ただ、女性比率が3割と高い議会は立候補者も多く議会が活性化しているのは事実。なので、比率を上げることが地域活性化の牽引力になることは確か。

 「男女共同の努力目標」といった抽象論ではなく、公選法で比率を書くか、各自治体の条例に委ねる形で書くかはともかく、クオター制の導入に踏み切ることだ。すると1人区でも立候補者が現れるはず。

女性議員の少ない理由は、議会が①男社会で成り立っている、②子育てや仕事を持ちながらの議員活動はむずかしい、③そもそも女性が議員に立候補できる社会風土がない、などいろいろな理由が考えられる。これをそのままにして、生活者の半分は女性なのだから、大いに「増やすべきだ」と叫んでいるだけでは、女性議員が増える状況にはならない。それには地制調などの議論にもあるように託児所の義務付けやオンライン参画を認めるなどの条件整備は進めるべき。ただ根本を変えるには、一定割合を選挙段階で女性枠として充てるしかないのではないか。

女性議員が少ないだけでなく、最近は地方議員になり手不足が表面化し、結果、市町村レベルになると無投票当選が3割も4割も占める傾向になってきているが、背景は、図の①~⑤まで様々な理由が伴う。若者が少ないという点でいうと、リスクを負う職業を選びたがらない若者たち、さらに先述のように8割がサラリーマンなのにそれが実質立候補できない仕組みになっていること。こうしたことが地方議会を遠ざけてしまっている。

それを変えるには、①5時から議会、土日議会へ、②報酬を上げ定数を減らす、③女性クオターだけでなく、年齢クオター(例えば50歳以下50%、それ以上50%とか)を入れる、④サラリーマンが立候補者しやすい環境として議会の開催時間帯を勤務時間外に置くとか、⑤議員活動中は会社を休職できるなどの法的制度の整備が要るのではないだろうか。

 法改正した役所から受託している事業費が300万円以下ならOKとか、検討中の立候補休暇制度はあった方がよいが、どうも問題の核心より周辺を撫でているような隔靴掻痒の感を否めない。問題の事態の方が先に先に進行しており、問題を食い止める切り札にはなっていない。

「無競争当選」が過疎の小規模市町村だけでなく県議選でも3割近くまで増えてきている状況、これは危機だ。1票も得ず、1票も入れた覚えのない人が「代表」の地位に就き、公共の意思決定に携わる。こうした選挙の洗礼を受けずに4年間住民の代表に就くという状況を認めることは、民主主義の仕組みと精神を否定することになる。もし、このまま無競争当選が増えていくなら、再選挙を含め選挙管理の仕組み自体を変える必要が出てくる。選挙管理上、例外として便宜上認めた無競争当選という制度が一般化してきた現在、議会制民主主義の根幹を揺るがす事態として再検討を要しよう。

 地方選挙とか、地方自治を国のあり方の問題と捉えない風潮があるが、それは危ない風潮だ。洋の東西を問わず、「地方自治がなぜ必要か」は多様な側面を持つ。とりわけ、いま日本で国会の機能も弱体化し、内閣が暴走する雰囲気にあるが、特に1.の独裁、専制政治に対する防波堤という存立理由を吟味してみる必要があるのではないか。同時の5.の地域の特性や民意の多様性を反映する政治・行政の仕組みとして「地方自治」の営みは大事だ。

 ちなみに現在の日本の行政は活動量から見ても財政の支出量からみても、7割は地方自治体(府県と市町村が半々)の手によって行われている。ここを見落としてはならない。

#統一地方選 #無投票当選

2022年10月15日土曜日

老いる東京―”インフラ廃止”!反対のジレンマ、市長辞職へ


  東京都のほぼ真ん中。人口12万都市・小金井市で市立保育園の一部廃園をめぐり、市長と議会が対立。自らの意志を通そうと市長が専決処分で廃園条例を決め執行へ。急ぎすぎ、撤回を求め市議会は不承認に。結果、市政の混乱を招いたとし10月14日西岡真一郎市長(53)が辞任した。

 経緯はこうだ。市は昨年7月、市立保育園5園のうち3園を廃園する方針を策定。うち2園を先行して廃園する条例改正案をこの9月議会に提出したが継続審議となり、急ぐ市長は自らの権限で専決処分を発動し条例改正へ。市議会の議決を得ない専決処分とした条例改正につき、小金井市議会は10月7日の本会議で20対2の反対多数で専決処分を不承認にした。これを不服として西岡市長はこの日夜、退職届を市議会に提出、市議会は同意した。その顛末を受け、市長は昨日辞職した。継続審議中の条例案を専決処分で改正し、不承認とされて職を辞するという異例の展開に。この事案、これは一体何なのか。後継を選ぶ市長選は11月27日に行われる模様だが、辞職した市長は出直し選としての再立候補の意向はないという。

 この話。どこか近いものが東京の郊外あきる野市で起きたばかり。この6月、あきる野市議会が介護老人福祉施設の誘致をめぐる独断専行の市長(65)の対応に「議会軽視で民主主義に反する」などとして不信任決議案を提出。議員21人中20人の賛成で議決。市長は失職へ。のち市長選で再立候補した同市長は落選、当時の市議会議長市長に当選したばかりである。この東京郊外都市で起きている政治混乱は何なのか。何かの始まりか?

 今回の小金井市の事案、問題は2つだ。1つは子供数の減少で過剰施設が目立つ中、老いる保育園から経過措置を講じながら廃園しようとするインフラ行政は、正しいかどうかだ。大都市も少子高齢化は待ったなし。保育園、幼稚園に限らず小中学校、集会所、道路、橋、上下水など生活インフラはかつての人口増時代に整備したモノから過剰状況に陥る。耐用年数50年で更新か廃止かの決断を連続迫られる市政が今後続く状態に。他方で介護施設や病院、近場公園などは足りず、供給量を急ぎ増やさなければならない。しかし、住民税、固定資産税を税源とする基礎自治体は税収は下降線で、財源不足が慢性化する。

 保育園が近くにあった方がよいし、共働きが一般化している都市近郊で廃園と言われると基本的に反対する。それは市民感情として理解できる。ただ、維持できるかどうかだ。生活インフラは自己負担がない限り、造るのは賛成、だが廃棄は反対!となりがち。これからの自治体経営のむずかしさは、右肩上がり時代の体内時計しか持たない一般市民に「止める」「廃止する」を説得できるかどうかだ。地方ではローカル鉄道線廃止問題が大きな話題になているが、相当の負担をしてでも残す意思を持つか問われる。 

 要は、本事案は事の始まりだが、老いるインフラの扱いを市民と意識を共有し”扱い方”をどう決めていくかという問題である。

 そこで2つ目の、小金井市長の専決処分はどうかだ。地方自治法で専決処分は災害など緊急避難的に市議会などを開く間がない場合、首長が議会に代わり条例制定なり補正予算なり条例改正なりを行う権限を認めている。その点、小金井市長の専決処分はあり得る話。だが、「廃園」が緊急避難を要するほどの緊急性がある事案かどうか。聞くところによると、10月から来春の募集計画をつくるので廃園を決めないと間に合わない、という理由を述べているが、実務担当の職員の声ならともかく、トップである自治体経営者である市長の理由づけとしては余りにもお粗末。財政上の理由も含め、もっと丁寧に市民を説得し、議会議員を説得する努力が要る。専決処分は伝家の宝刀ではない!

 ただ、議会の体質も問われる。首長と議会は2元代表制の下では共同経営者なのだ。首長は議会の決定に基づき執行実務を担当する立場。失敗の責任は全て執行機関である首長の責任であるかのように報ずるマスコミなどの論調があるが、それは違う。基本的な決定事項の責任は議会が負う。果たして今回、小金井市議会は長期財政見通しまで含め、自治体経営の視点も交えて市民の理解を得るような努力をしているのか。「反対!」の先頭に立てば再選に有利といった目先の時期利益を優先していないかどうか。

 いずれ市長選では、単なる賛成、反対論争ではなく、12万都市の自立経営が可能かどうか、他のインフラ更新まで含め幅広く問い直すべきだ。災い転じて福となす!を期待したい。この件は、大都市のみならず、これから10年各自治体が直面する問題だ。まず来春の統一地方選でそれが問われる。小金井市を他山の石として各地で生かすべきだ。

#老いるインフラ #大都市郊外の税収減 #自治体経営 #議会人の経営感覚



2022年9月3日土曜日

「首長政党」から「議員政党」へ

  1つの時代が終わった感じがする。1強多弱と言われる日本政治に“改革の風”を送り続けてきた「日本維新の会」。これが橋下徹、松井一郎、そして吉村洋文とスター知事、市長を党の顔とし、大阪改革の実績を売りに一定の影響力を保ってきた「首長政党」から、党首が議員というふつうの「議員政党」に変わった。20229月のことである。

この性格変容の影響は次第に大きくなると見る。世論の見方は他党とワンオブゼンに並べてみ始めた。大阪都構想の実現を狙う地域政党として発足、その創設者(オーナー)の引退、その路線を継ぐ番頭へのバトンタッチの儀式も終わった。827日の党大会でのことである。

名キャッチャーから突然監督の指名でピッチャーに、しかもエースナンバーを背負わされた交代劇。ウオーミングアップなし。どんな球を投げるのか。2週間あったはずの初の代表選。“初の”という売込みの割に熱気は感じられず、政権党をめざすと言いながら、どんな政党を、そして何をやるのか、国民へのメッセージはなかった。期待感が萎んだように思う。見えたのは、党内の内紛と意外にオーナーは独裁的な運営だったのかという素顔のみ。

 結果、有権者も是々非々の対応に変わった。そもそもこの党は、野党なのか与党なのか、一説のように「ゆ党」なのか。”是々非々”の対応というが、国民からすると指針も理念もない行き当たりばったりの対応、と映る。代表本人はそう思っていないだろうが、世間にはそう映る。無党派層の支持は移ろい易い。有権者の対応が是々非々に変わったという意味は、そのことと同義。もともと絶対的支持ではなく、相対的支持が多い。他に支持すべき魅力ある政党がないから、という消極的支持が多い。そのことを忘れ、そこを見誤っては間違う。

国民に分かりやすい、明確なを掲げられるかどうか。「大阪都構想実現!」の旗から、最近「身を切る改革!」という旗にしているが、大阪で通じでも東京を含め全国の各地に共感を呼ぶものかどうか。どこか違和感を覚える。国民の立場に立つと”身を切る”とは何?サービスカットを受け入れよ!という話にも聞こえる。もともと議員の姿勢、精神論を示したものだろうが、国民と”共有できる旗”とは思えない。

全国政党をめざす、地方議員の数を1.5倍に増やすと新代表は公言しているようだが、氏のいう全国政党は各地に議席を持つことをイメージしているのか。選挙三昧、議員勢力の拡大が全国政党の道か?本質は少し違うのでは。全国に共通する政策課題、日本の抱える問題を解けるかどうか。その能力を持つ政党、それが全国政党ではないのか。

では、そこでの旗は何か。東京一極集中と地方過疎の同時併存のこの国を、自民党はやらない方法で変える。その打ち出しはどうか。例えば廃県置州とか、3大高速網フリーパスとか、地方所得倍増構想とか、第3臨調を設置―国、出先機関、公社、公団、都道府県制度に巣くう「壮大なムダ」を大ナタを持って切る。増税なき、貴に地方の借金の減る日本づくりをめざす。こうした「日本を”維新する構想”」を打ち出す。それが旗ではないのか。

発想の原点は大阪改革の体験がベースでよい。それは大いに売り。首長政党の時のように。ただ首長が言うのと議員が言うのでは説得力が違う。当事者のイメージが議員にはないから。この先議員政党に変わっても、ただ大阪の成功体験だけを全国に押し売りするようだと”過去形の扱い”になる。支持が広がるとは思えない。なぜなら日本各地は多種多様、方言も違う。大都市東京も大阪と違う。日本の7割は過疎に悩む。過疎と戦う地方をどうする。この旗づくりには体力もいるがそれ以上に知力が要る。一言でいうと、“維新の旗はこれ!と多くの有権者の胸にストンと落ちる旗。これが欠けるのが、いま「維新」の一番大きな問題ではないのか。少数の若き志士達が「志ひとつ」で明治維新を興した。その意気込みが。

もとより旗という点、これは特定の維新という党だけでなく、自民も含めすべての党に当て嵌まる。日本の政党は選挙の時しか話題をつくれない選挙互助会党の色彩が強い。票取りゲーム、それが選挙という理解かも。そうではなく、政策をつくり、人材を磨くの政党。選挙に限らず日常、政策を巡って激しく競り合う。それが政治活動の本質ではないか。

憲法上規定がなくとも実質多くの税金を投入して政党活動を支えている日本。国民、有権者の期待はそれを託しているから税の投入を認めている。そこを間違ってはいけない。労働の対価が歳費であり関連諸費用だ。決して身分報酬ではない。「働かない国会」。もう働かない拠り所の「会期制」はやめて、”通年国会”に変えたらどうか。いつでもどこでも議論ができる国会。災害が起きたらすぐ対応。全てはオープンに“万機公論に決する”。そう変えたら政治不信ももう少しは弱まる。形式主義、前例踏襲の権現のような国会風習。ある新人議員が”ここ19世紀か”と驚いていたが、いや18世紀かも知れない。裃など捨てて前進を!

#日本維新の会 #1強多弱 #第3極政党  #働かない国会