2026年10月16日金曜日

             副首都法の「政令案」をどうみるか

 

はじめに 

 先の特別国会で7月24日に成立し、7月31日に公布されました、いわゆる「副首都法」(正式名称:国家社会機能継続性確保施策及び副首都の整備に係る施策の推進に関する法律(令和8年法律第78号)について、実施に向けた「政令」案が示されている。パブリックコメントを経て10月下旬に政令を公布し、11月に副首都の在り方に関する基本方針の考え方を公表し、来年10月までに基本方針を取りまとめる方針という。この間に自治体からの申請を受け付ける模様。
 副首都法は、東京圏で大規模災害(首都直下地震など)が発生した際に首都中枢機能(政治・行政・経済など)の全部または大部分をバックアップする「副首都」を定義し、あわせて平時には多極分散型経済圏の形成を推進することを目的としているが、まず政令案で示された中身について検討することが大事と考え、ここに2つの論点を掲げ持論を述べてみたい。

  論点ー1.政令案では要件の人口や経済規模の集積について具体的な数値を示しているが、これをどのように評価したらよいか。 

 政令は「法律を実際に施行するための具体的な手続きや様式を定めるもの」なので、今回出された政令案は法律をなぞったものに止まっている。具体的には①東京圏との同時被災を避けるため、首都直下地震の緊急対策区域外かつ富士山の火山災害警戒地域外であること、②道府県に国内の人口1.2%以上の政令市があること、③道府県はGDPの2.1%以上の経済規模があること、③28種類ある国の出先機関の半数以上が立地していること、④府県内に特別区がある、ないし道府県と政令市が連携協約を締結していること、としている。具体的な数値やしくみを示したことは当然と言える。

 ただ、1つ防災副首都の議論で最も大事な「副首都として地震、噴火、テロなど大規模災害に被災する可能性の低いこと」が欠落している。これは元の法律にも欠落しているから、政令で新たに加えることはむずかしいと見たかもしれないが、現実的に副首都の地域指定をしてもその地域が首都圏と同様に被災可能性が高く規模も大きなものが想定されているならば、副首都と言っても何の役にも立たないことになる。なぜか、国民の多くはその点が一番の疑問点ではないかと診る。

 さらに個別の指定要件について、なぜ①人口150万人以上の政令市がなければならないのか、②12兆円以上の経済規模のGDPがなければならないのか、③国の出先機関の半数以上が集中していなければならないのか、その「なぜ?」に答える説明がないだけに、法律をなぞっただけの政令では納得できる国民、自治体は少ないのではないか。事実、筆者自身そう思う。結局、大阪をはじめ3~4の道府県しか対象にならないよう、最初から絞り込んだ感を否めない。

改めて言うが「災害リスクは列島各地にある。東京圏の被災ありきに限定しての副首都指定は現実的でない」と筆者は考える。東京圏被災ありき対策の目的法なのか、その場合、東京圏、1都3県が全滅するかのような想定で東京都心以外の東京圏全域を除外しているが、どう見ても現実的ではない。 

そもそも何のための指定かを問う視点から言えば、東京の被災リスクとして首都直下地震と富士山噴火に絞っているが、しかし、南海トラフ巨大地震は関東まで被害が及ぶ可能性があるし、首都直下地震との同時発生も考えられる。被災という意味でいうと、災害はそれだけではない。海外からの武力攻撃や大規模テロといった事態も考慮しなければならない。集中豪雨による一時的な機能マヒも起こり得る。こうしたあり得る限りのリスクを想定し、それが現実になった場合に首都機能を維持するにはどうすべきなのか。その首都機能マヒがどれぐらいの期間続くかによっても、副首都に期待される役割は異なってくる。

つまり「副首都」は何を担うのかを不明のまま、イメージとして「首都機能の代替」論が進んでいることに「現実的でない」政令と言わざるを得ない。もし、短期間で東京が首都機能を回復できる程度なら、わざわざ遠方に副首都を置く必要もないことになる。

議論の中心に据えられるべきは、国家の中枢機能をいかに維持して国民の安全安心をいかに守るかという観点であって、副首都の整備は特定の都市が勝ち、他は負ける「ゼロサムゲーム」のような地域指定ではない。いま複数の自治体が副首都に名乗りを上げているが、中身が十分議論されないまま「おらが町の副首都誘致合戦」に堕している感がある。

副首都について、一定の人口規模や経済規模などを政令は求めているが、これはどう見ても大阪をはじめ4道府県への絞り込みのための要件としか思えない項目である。むしろ手を挙げている自治体は、整備時に期待される規制緩和や税制優遇など、経済面の優遇措置に着目し、バスに乗り遅れまいという行動が先走っている印象が強く、実際、それを求めての誘致合戦となるように見える。この点について強く懸念する。仮にいま手を挙げている都市だけが副首都となり発展すれば、地方との格差がさらに広がる可能性もある訳で、それは多極分散型国土形成に寄与するというもう1つの法の趣旨に合わなくなる。

南海トラフ巨大地震など東京以外での災害リスクを考えた時、「安全な副首都とは何か」を掘り上げて検討・整備することが大事ではないか。この要件の欠落は致命的である。

 論点ー2各地の自治体から賛否さまざまな声が出ているが、今後、政府にはどのようなことが求められるか。

 いま国民世論も多くの地域や自治体も、特定の大都市自治体を除くと、ほとんど「副首都」論議に関心を示していない状況にある。これでは単なる一部地域の指定合戦に止まり、30年前の国会等移転法の二の舞に終わる可能性がある。自民・維新の連立政権のかたちが、今後他党が加わるなり、維新が連立を離脱する事態などが起こると、この法律の実行は一気に立ち消えになる可能性も否定できない。それだけ政治的産物の性格が強い法律である。

まして、肝心の首都機能の本丸と思われる1府12省(本省)の中で「何かの動きがあるか」と言えば、全くない。おそらく新聞社等マスコミが各省庁にアンケートをかけても「ゼロ回答」ではないか。つまり、災害対策は大事だという話と、それに向けて具体的に動こうという話とは別だということ。いわんや、11月初旬には350名を超える規模の大「防災庁」が大臣庁として発足する段階にある。この防災庁の大きな仕事が首都機能の防災ではないか。それを横においての議論は現実的ではないし、今後屋上屋を重ねる話になる可能性もある。この法律が議員立法であることの限界ともいえるが、閣法で出すべき性格のこの法律を大阪を起点とする維新が先導して提案した法律だけに行政レベルの世論が全く形成されていない。これでは「法律、政令つくって魂入れず」に終わってしまう。この先、どう機運の醸成までつなげていけるか。

そこを除いても、政治・行政・司法・経済といった、東京の全ての機能を代わりに果たす都市を整備することなどできない。全ての危機に対応できる地域などないと言える。都市や地域がそれぞれの特性を自覚し、どの分野でいかなる危機であれば首都機能の一部を担えるかを考えることが大切であって、特定の地域指定で話が完結するものではない。

デジタルトランスフォーメーション(DX)やIT化が進み、複数の拠点で平時から重要な業務を分散して行うこともできる。いざという時に複数の地域が協力して東京の代わりになれるよう備えておくことが大事であって、その意味で特定の要件に適う数か所の大都市(道府県)を指定し、他を排除する形にするのは問題解決に繋がらない。

候補に挙がっていない多くの地方自治体からは、「大都市圏限定の副首都づくりは、さらなる地方の人口減少や、新たな二極集中(東京と副首都への集中)を招くだけではないか」という懸念も示されている。日本海側のある知事は「自県が副首都になるイメージは持っていない」と明確に距離を置く。「副首都」について指定要件が具体化しつつあるものの、実際にどのような権限や税制優遇が国から移譲されるのかという具体像が見えず、「地域振興の看板(利権)争いに終始してしまい、制度の本質がぼやけるのではないか」という困惑や懸念の声も対象地域以外から上がって来るのは当然の成り行きと言わざるを得ない。

東京圏の知事の中には、「短期間で東京が首都機能を回復できるなら、わざわざ遠方に副首都を置く必要もない。例えば、さいたま新都心には10省庁などから多数の国の機関が集中している。耐震性を備えた庁舎があり、防災通信ネットワークも整備され、広域防災拠点の機能がある。短期間であれば首都機能を担う準備ができている。」。なぜ、こうした現実的に対応可能な内陸都市があるのに、それを排除するような法律、政令にするのか?といまの政府の動きを疑問視する声も出ている。これが率直な、現実的見方ではないかと筆者は診る。

大切なのは政治・行政・司法・経済といった、東京の全ての機能を代わりに果たす都市を整備することなどはできない。全ての危機に対応できる地域などないと言ってよい。

“安全な副首都”とは何かを検討・整備することは非常にむずかしい問題だ。だからこそ、都市間ネットワークで互いに補完することを考えなければならないし、政令市と府県という行政単位でモノを考えるのではなく、通勤圏や経済圏に広がりをみて、大阪府なら関西圏、愛知県なら東海圏といったふうに、道府県にこだわらずに1つの大都市圏、広域的なエリアで副首都の整備計画や連携方法を考えることが大切なのではないか。

 その点、“スケジュールありき”で地域指定、整備方針の制定へと突き進むのは避けるべきで、政府は少し立ち止まって、全国ベースで議論が広がるよう工夫を凝らす必要があろう。


2026年4月14日火曜日

分権国家化に逆走する政府姿勢への危惧

 

分権国家化に逆走する政府姿勢への危惧

 下記の「穂坂邦夫氏の論稿」(日本自治創造学会メールマガジン115号、2026.4.14)は、まさに今の日本の地方自治と国の関係を「改革の視点」から適確に表現していると思う。土木系技術職員が圧倒的に少ない市町村をみて、県に権限を逆に移すべきとか言う理由での集権改革への動きが、第34次地制調などでも強まっている。ここは踏みとどまって考えるべきと思う。 

‶忘れられた地方自治は民主主義の学校〟(穂坂邦夫論稿)

 地方自治は民主政治の最良の学校であり、成功の最良保証人である地方自治こそが民主政治の基礎であるとイギリスの政治学者であるブライスの「近代民主政治」の中での教訓は誰もが知っています。

 大手新聞社の論説に「地方分権は限界にきている」という見出しを見つけました。驚いて、何かと思って内容を読みましたら「地方に出来ることは地方にというスローガンの下、長年に渡って地域の自主性を高める改革が行なわれてきた。しかし人口減少と高齢化が進んだ今、小規模な市町村で様々な業務を担う余裕がなくなりつつあり、国と地方の関係がどうあるべきかを問い直す時期を迎えている。小さな自治体は自力で行政の機能維持が出来なくなる恐れがあり、政府は業務の一部を国や都道府県が担うことなどを盛り込んだ改革(案)を2027年度までにまとめる予定である」と、これを是認する姿勢と方向性を明らかにしています。

 この論説や解説にはいくつかの疑問点があります。これまで地方にとって真の分権改革が今までに行われてきたと考えているのでしょうか。甚だ疑問です。今までの改革は常に対処療法的な手法を繰り返してきました。真の分権改革とは程遠いものです。財源と権限にはふれることなく、具体的には地方交付税制度や全ての補助金制度を温存したままであり真の改革と言えないものでした。今回のマスコミの論説はこれらにふれることもありませんし、国と地方のあり方についても議論すらされていません。今まで通りの小手先の改革を是認しているのが今回の大手マスコミの姿勢です。特に論説記事はそれぞれのスペシャリストが目を通しているものであり、本質にふれることなく、国の方針と小手先改革を是認していることに大きな驚きを感じています。国と地方のあり方や分権の意義など、なんら気にしていない姿勢にも驚愕しています。マスコミは民意をリードする力を持っているから尚更のことです。

 これから日本の統治機構はどうなっていくのでしょうか。心配です。私達は様々な機会を通じて地方自治の大切さを訴えていかなければなりません。自治体はひとつひとつの力は弱くても町村会や町村議長会をはじめ市も県もそれぞれ、補助機関を有しています。特に地方議会は国と地方のあり方について強い関心をもっていかなければ国家の基盤となる民主主義のあり方が問われていくことになのではないでしょうか。「地方自治は民主主義の学校」だと言われたことをしっかり思い起こすことが求められています。

2025年12月4日木曜日

拙速な「議員定数削減」を問う

 

拙速な「議員定数削減」を問う

佐々木信夫

 政治とカネをめぐる国民の目は厳しい。しかし、政治家はなるべくその目からこの問題をそらしたい。いま起きている「衆議院議員定数1割削減」はその際たるもの。少数与党の弱みを狙ったかのように「身を切る改革」を売りとする日本維新の会が連立政権参加の条件としてそれを打ち出した。国会議員の身に直接降りかかる問題だけに、与野党とも議員のうろたえぶりが見え隠れする。ホンネは変えたくない。建前は変えないと政権がもたない。見えてきたのは、いかにしてこの動きが改革につながることを先延ばしするかだ。

自民党と日本維新の会がいまの国会での成立を目指す衆院議員定数削減法案の原案が明らかになった。衆議院議員の現行定数(465)の1割削減を目標に与野党で協議し、期限の1年以内に具体的な削減方法で結論が出ても出なくても、2027年度以降に削減を実施することが柱となるようだ。原案では、現行定数を「420を超えない範囲で1割を目標」に削減するとし、衆院議長の下に置かれた与野党の協議会で具体策を議論すると定めた。議論には期限を設け、結論に基づく「法制上の措置」を1年以内に講じることとする。結論が出なかった場合、小選挙区選で25議席、比例選で20議席をそれぞれ削減することが自動的に決まる。

これに沿ってその後、衆院選挙区画定審議会(区割り審)が区割り改定案を検討し、政府に1年以内に勧告するため、実際の削減は27年度以降となる。一方、与野党で結論が出た場合も小選挙区で削減する場合は区割り審での検討が必要となる。政府への勧告は1年以内となるため、この場合も削減は27年度以降となる見通しだ。

たぶん、その前に衆議院解散、総選挙を行い、この動きをうやむやにする。そうした思惑を秘めての先延ばしではないか。筆者にはそう見えるが、違うだろうか。なぜなら、ホンネは定数削減も本当はやりたくないからである。いろいろ出ているが、なぜ定数だけ問題にするのか。選挙とカネはどうか。議員待遇が世界で一番高い日本。これを放置したまま、あたかも政治不信が議員定数であるかのような言い方をしているが、国民はそう見ていない。定数も待遇も選挙方法も全て見直すべきと見ているのではないか。

選挙は民主政治の根幹といわれる。選挙制度が確立したのは、先進国でも20世紀に入ってからだが、日本の場合、どうも戦後80年経っても国民の間に選挙が十分定着していないように見える。否、選挙離れが著しくなっている感すらある。どうしたものか。

日本の公職選挙法(以下、公選法)は、1950年(昭和25)に制定され、大きな改正のないまま現在に至っている。だがこの間、世の中は農村国家から都市国家へと大きく変貌した。ポスターを貼り、はがきを出し、街頭でのぼりを立てて演説するスタイル。これが続いているが、しかし、立ち止まって聞く人は少ない。インターネットが普及している情報社会にあっても、未だこうしたスタイルがベースになっている。公費助成を含め公選法の規定はそうだ。地盤、看板、カバンが揃わないと立候補できないのが現実だが、果たしてそれを用意できる人はどれぐらい居るだろうか。

いま起きている小規模市町村でのなり手不足は時代遅れの規定と関わっているのでないか。回を重ねるにつれ、国政選、地方選とも投票率が右下がり、5割を切るところまで落ちてきた。半数以上の人が投票に行かない社会。有権者の資格を18歳に下げてみてもそう変わらない。果たして、これが選挙は「民主政治の根幹」と言われる姿だろうか。

 選挙には①代表者の選出、②政治への民意の反映、③業績評価の機会といった役割が期待されているが、果たしてこのいずれが機能し、いずれが機能していないか。どこに本質的な問題があるのか。 

よく「選挙制度なんて、何だって同じじゃないか」という人がいる。しかし、本当にそうだろうか。じつは、選挙制度によって、その国の政治がガラッと変わってしまうことがある。代表を選ぶ方法は、国や地域によって様々である。有権者が投票所に行って自分が気に入った候補者名を書く国もあれば、全ての候補者に好きな順番を書かなければならない国もある。また、各々の選挙区でもっとも多い得票数を得た候補者が当選となる国もあれば、得票を政党別に集計して議席を割り当てる国もある。細かな違いまで加えると、国の数だけ選挙制度があると言ってもよい。

選挙制度は、①選挙区の大きさ、②議席の決定方法、③投票方法の3つを基準として分類するのが一般的だが、日本はどうか。衆議院選挙を例にみてみよう。今から約30年前、1996年9月まで戦後長らく日本の衆議院選挙は中選挙区制と称し、1つの選挙区から3~4人を選ぶ制度だった。しかし、1つの選挙区に同じ政党から2人以上立候補して戦う。特に自民党では党内派閥の勢力争いがひどく、1選挙区に2人以上公認する傾向があった。政党選挙というより、派閥選挙が顔を出していた。そこにはカネが飛び交う金権選挙も加わり、目に余るものがあった。

政治腐敗が蔓延した。そこで1993年発足の細川8党非自民連立政権は政治改革を大きなテーマとした。紆余曲折はあったが、94年に法改正し、96年10月から中選挙区に代えて、現在の「小選挙区比例代表並立制」(定員465)が実施されている。

政権交代可能な制度という触れ込みで始まったこの制度。確かにその通り、2009年8月の衆院選で民主党が大勝し、自民党は1955(昭和30)年の結党以来、初めて第一党の座を失い、民主党鳩山内閣が誕生。だが、政権交代が行われたとはいえ、菅直人、野田佳彦と毎年首相が交代するなど民主党政権は不安定で、わずか3年3ヶ月という短命で終わった。2012年選挙で政権は再び自民党に戻り、以後、自公連立とは言え自民党政権が続いた。そして2025年11月に自公に代わり自維政権となり現在に至っている。

この間、何度か衆院選が行われているが、この「小選挙区比例代表並立制」という制度は一体何を選んでいるのかよく分からない。年々おかしくなっているのではという批判も尽きない。当初、定員が1の小選挙区を全国で300設置し300名、さらに全国を11のブロックに分けて比例代表として200名を選出していた。その後、1票の格差の是正など3回の定員の見直しが行われ、現在の小選挙区289、比例代表176となった。

全国289の選挙区で各1名(計289名)を選ぶ「小選挙区制」と、全国11ブロックから各党の得票に応じ、候補者名簿の上位から順に176名を選ぶ「比例代表制」の二つを並行して行う制度となっているが、そもそも当初は重複立候補という意味不明の制度はなかった。否、例外として、少数政党に配慮し、小選挙区と比例区の「重複立候補」を認めてはいたが、それは例外中の例外という扱いだった。ところが、それから20数年経つうちに、今や比例区の87%が小選挙区落選、比例区復活という、重複立候補者で占められる事態になっている。立候補している政治家から聞くと、小選挙区1名だと当選可能性はないが、惜敗率で2位に食い込めば比例区復活当選がある。だったら出てみよう、議員に成れる可能性が大きいと歓迎するムードがある。

しかし、これが一般国民にどう映っているかだ。昔はやった春日八郎の「♪死んだはずだよお富さん!生きていたとは、お釈迦様でも知らぬ仏のお富さん!」という歌がある。正にそんな感覚ではないだろうか。重複立候補した人は小選挙区で当選できなくても、所属する政党が比例代表で議席を獲得した場合、当選できる。当選者は、事前に政党が選挙管理委員会に提出した名簿の順番で決まるが、小選挙区と重複立候補した人が複数いる場合は、同じ順位にそれらの候補者を並べることができる。同じ順位の中から当選者を決める場合は、小選挙区における「惜敗率」という考え方が使われる。ある政党の名簿1位に3人の候補が並んでいて、その政党の比例代表での獲得議席が1だった場合、小選挙区の惜敗率が最も高かった人が当選するという仕組みだ。

惜敗率は同じ政党の同じ順位の候補者の中で比較されるため、惜敗率が90%でも当選できない人もいるし、逆に50%でも当選できる人もでてくる。小選挙区で落選、比例区で復活、これを「復活当選」と呼んでいるが、2021年選挙の例でいうなら、その割合は87%にも上った。これが普通だと思う人達も増えているかも知れない。

しかし、狭域の「小選挙区」で選ぶ意味と、広域の「比例区」で選ぶ意味は全く違うはずだ。小選挙区だと地域の問題、ゴトー千ソングを歌うどぶ板議員が多く輩出されるが、それだけだと国会はいびつになる。そこで広域単位で選ばれる比例区当選者を約4割当て込み、ダブルスタンダードの代表制とした。だが、年月が経つうちに比例区当選者の多くが、そもそも小選挙区での当選を目指した人の塊だとすると、どうだろう。小粒な地元代表のような国会議員しか出て来ないのではないか。

小選挙区だけだと1対1の勝負になるので「死票」が多く出て、民意を鏡のように反映するのはむずかしい。たまにオセロゲームのように政権交代は起こりうるが、負けた方の死票が生きない。そこで比例区との重複立候補を認め、小選挙区で惜敗率が高ければ比例区の政党得票数の枠内で当選できるという形にした。だがこれはあくまで例外的な措置。今のようにここまで重複立候補者が増えると、「比例区」とは一体何のためにあるのか意味不明になってくる。  

端的にいうと、これでは小選挙区の落選者「救済制度」ではないか。議員が身内同士でかばい合う制度では。ちなみに比例区の「単独立候補者」当選者は13%のみ。重複立候補者87%とそれは質的にどう違うのか。全国を11に分けたブロック単位の比例区は単に小選挙区の補完、救済のためにあるということになる。3名当選の小選挙区が8つ、2名当選の小選挙区が110、1名当選の小選挙区が171で、小選挙区比例復活者が126名に上り、比例区単独はたったの50名に止まる。そう変質している。

元々はそうではない。設計当初は、人口40万人単位の地域を代表する小選挙区から300名、東北、九州など11の広域ブロック(ある意味「州」)から政党別投票率で選ぶ180名を組み合わせて衆院の多様性を担保しようとしたはずだ。小さな地域密着の視点を持つ人材と、広い地域で広域の視野を持つ質の異なる人材を組み合わせることで、衆議院に正しい民意を持ち込もうとしてできたのが本来の制度趣旨である。ここが大きく変質してしまった今、このままでよいはずはない。

国民の選挙に対する関心は下がり、投票率も右肩下がり。まもなく50%を切るところに来ている。これを基本に立ち返って変える時ではないか。小選挙区は小選挙区で比例区重複立候補は認めない、ブロック比例区は比例区のみの立候補で小選挙区との掛け持ちは認めない。それぞれの持ち味を持った者が当選してくる。この原点に戻すことが必要ではないか。

もう1つ、区割り変更の影響を見ておこう。2024年10月に大きく区割り変更が行われた後の初めての衆院選が行われた。結果はご承知の通り、与党の過半数割れで少数与党の状況にある。この衆院選は、多くの選挙区(1,996エリア)で境界変更が行われた。その結果を分析したある研究を見ると、地域においては投票率が高まる傾向があるという新たな視点が示されている。

この現象は、境界変更に伴い、従来型の『地盤・看板・カバン』に代表される既存勢力への依存度が弱まり、有権者が新たな判断基準を用いて候補者を選択したためとみられている。特に、現職の有力候補者が不在となった地域では、有権者が候補者個人の実績や地域内での人間関係に依拠せず、政党のイメージや掲げられた政策内容に基づいて投票行動を決定した可能性が高い。

こうした「しがらみのない候補者同士」による競争環境では、従来型の地域密着型選挙から政策本位型の選挙へと争点が移行し、有権者が政党や候補者の政策的方向性をより明確に意識する状況が生まれたといえる。境界変更がもたらした選挙の質的変化を踏まえ、有権者の政策判断を促進し、より公平で透明性の高い選挙制度の実現に向けた検討が必要となろう。

このように小選挙区制は、バラ色の制度ではなかった。しかし、これで政治家が小粒になったと言っても、三角大福中の時代から日本人の素質や能力が低下しているのではない。政治家になるチャネルが細くなり、かつ素質や能力を磨かなくても済むシステムになっていることが問題なのだ。世襲議員を含め、いま公認を得ている人達から改革の声は上がらないだろう。議員定数も問題だが、そもそも論でいえば選挙制度の再検討の方が先ではないか。

選挙にカネのかからない仕組み、議員の待遇は世界標準にするといった、多面的な改革をしてこそ、政治改革の名に値する。そこがスポッと抜けて、ただ議員定数削減だけが独り歩きする。これで政治がよくなるとはとても考えられない。国会議員任せではダメ。広く民意の参画する方法で、政治改革を行うべきだ。そうした方向に向く新たな世論の形成を期待したい。