ラベル 地方創生 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 地方創生 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年3月21日金曜日

          地方創生策・異議あり!(佐々木信夫)

今回は日本地方自治創造学会の理事長である穂坂邦夫氏の論説を、筆者も同意見であるという観点から紹介させて戴きます。下記の論説の通りだと考えます。2000年改革を忘れ、安倍政権の再集権化に地方創生が、石破政権まで貫通してしまっている。上から目線の地方創生なんて、古い2000年改革以前の上下関係時代の国と地方の構図を呼びさましているに過ぎない。地方の内発力を高める策こそが「地方創生」であって、国が創るものでは全くない。石破政権の1丁目1番地とされる「地方創生」、これでは看板が大泣きする。再考を願いたい!

 以下、穂坂邦夫氏の論説を全文紹介します。これが本筋だと思います。 


的外れの地方創生伴走支援制度

活性化は地方の自由な発想を活かすことが基本原則です〟

             穂坂 邦夫((財)日本自治創造学会理事長)

  国は何を考えているのでしょうか。不可解でなりません。地方創生2.0の推進に向け「国の職員がこれまでの経験を活かして自らの仕事を行いながら、地方創生に携わり、課題を抱える中小規模の自治体に寄り添って支援」を実施する「地方創生伴走支援制度」を立ち上げました。しかも、ご丁寧なことに、総理自らが地方を訪れ中央省庁の職員が、地方の伴走者として今までの経験を活かし地方に知恵を貸して、様々な課題を解決するために支援を行います〟と説明までしています。

 私は県の職員、町の職員、市議会議員、県議会議員、市長として地方と向き合い、実務はもとより、地方の自立や補助金の改廃などについて構造改革特区にも多数の提案をしてきました。その間、国の官僚の方々とも深いお付き合いをさせて戴き、国の職員が地方に対する経験をどれほど積んでいるか、それぞれの地方の個性や地方の基本的な行政のあり方などについての知識を持っているのかも理解をしてきました。

 私は国家公務員としての彼らの能力については一定の評価をしていますが、地方行政については素人と言っても過言ではありません。そのうえ、地方は幼児ではありませんし、無能な人材の集まりでもありません。多少、バラつきはあるものの、優秀な職員は沢山います。伴走支援制度は的外れであるばかりでなく、これほど地方をバカにした施策を聞いたことがありません。国の地方より上位者だとする思い上がりと地方自身では何も解決出来ない〟とする国の傲慢さを感じると共に、地方をバカにするな〟の思いが湧き出てきます。

 本来的に、我が国の地方に対する行政制度は様々な問題点を内包しています。国が地方に押し付けてきた地方自治法も不可解なところが沢山あります。300万人の政令市も3000人の村も同じ行政方式を押し付け、全国を一律的に運営し、管理する手法です。国庫補助制度による上下水道や道路の設置にしても「地方の規模や地域の特殊性」を考える事もしません。欧米では行政規模に合致した多様な地方制度さえ認めています。今日までの分権改革を見ても、木を見て森を見ない、いわば小手先の改革に終始しています。基本的に国は今日まで一貫して、地方を一律的に管理してきたと言っても過言ではありません。

 「住民自治」は住民が自ら治めるのが大原則です。民主主義を守るための規律は必要かも知れませんが、全ての自治体を「全国一律、護送船団方式」として運営することを基本としているのが我が国の地方に対する基本的な姿勢です。地方自治体は人口だけでなく地域の大きさも、地域環境も大きく異なるのです。

 地方を強くするためには、地方の裁量権をもっと大きくして、自ら考え、自らが決定する「自立性のある地方」をつくらなければなりません。それにも関わらず「国家公務員」の経験を活かして地方の伴走者とするこの制度は明らかに逆行しています。寄り添うのではなく、地方の足を国が伴走者として縛るのではなく、「自由にやって下さい」と距離を置くことが国の基本的な役割なのです。

 国は地方の再生の方策に関して、基本的な誤りを犯していると断じざるを得ません。今こそ、地方自身の自立を図ることが、再生の大道であり、その道しかないことを肝に銘じることが必要です。  (日本自治創造学会メールマガジン第107号巻頭言より、25年3月)

2023年11月4日土曜日

これでよいか首長選に関するネット選挙規制

                                     ◆ダメダメ規制の公選法でよいか

日本の公職選挙法(略称公選法)は選挙に関し国政、地方選を一派ひとからげに規定している。国政と地方政治は政治システムが全く違うのに。国政は一元代表制で国民は議員だけ選び、その中から多数派(与党)が執行機関の役割を担う首相、閣僚を選ぶ仕組みだが、地方政治は二元代表制で執行機関の長と議会議員は別々に選挙し、双方は抑制均衡関係にあることが望ましいとされる。地方議会に与野党の関係はなく、むしろ首長と是々非々の関係を保つことが求められる。

これをひとまとめに「選挙」という行為だけを捉え一律に規定しているのが公選法だが、適切な当選者を選抜する仕組みになっているかどうか。とくに地方自治、「住民の・住民による・住民のための政治」を行う民主主義のベースをなす営みに関し、住民が候補者を十分知り得る機会を保障した仕組みにあるかどうか。ちなみにこの春の統一地方選での280市議選の投票率は44.26%、250町村議選は55.49%といずれも過去最低を記録、63市長選も平均投票率47.73%と5割を割り込んだ。無競争当選が3割を超え、なり手不足も深刻で日本の民主主義は草の根から枯れ始めている。

◆有権者が候補者をよく知る必要がある

なぜこうなっているか。候補者の人なり政策なりを知り得る機会が少なく、有権者の選挙への関心がどんどん薄れていく状況と戸別訪問ダメ、挨拶の有料広告もダメ、署名活動もダメなど選挙について「あれもダメ」「これもダメ」の規制だらけの公選法がこの事態と大きく関わっていないだろうか。問題にしたいのはとりわけ首長選のあり方だ。自治体の執行機関である長の権限は強く、予算編成から条例提案、決算まで自治体経営の骨格をなす基本事項は長に作成・提出権を独占させており、議会はそれを受け身の形で集団審議するのが実態となっている。市民から見ても自治体の代表は独任制の首長にあるとの認識が強く、数名で争う首長選に特に注目が集まる。しかし、政策を知るにも人を知るにもポスターと選挙公報など活字媒体の配布物を見る以外、首長候補者をよく知る手立てがないのが実態である。

 

 DX時代を標榜する動きの中で、情報ネットを通じて政策論争が交わされ、候補者が自己主張を有権者に直接届ける手立てを保障することはできないのだろうか。そこで起きた1つの事象。4月の東京都江東区長選で、選挙期間中に投票を呼び掛けるインターネットの有料広告を掲載したことが公選法違反とされ、当選した江東区長木村弥生氏(58)は半年で辞意を表明する事態が起きている。「区政の混乱、停滞をさせた」とし、11月半ばで辞職し、12月初めに再び区長選が行われる様相だ。この方法を教唆したとされるある衆院議員も批判の対象になり、マスコミも「けしからん!」の集中砲火を浴びせる様相にある。確かに現行ルールからすると許される行為ではない。法律違反をしたら一定の処罰を受けるのは当然の裁きだが、果たしてそのルールが首長選にも相応しく時代の動きに合っているかどうかだ。

地方自治は団体自治と住民自治が車の両輪とされる(図)。公選される首長、議員はこの2つの自治を足場に活動する仕組みで、執行機関たる長は自治体の条例、予算、主要な契約、決算などの案を作成し、議会の承認を得て執行する立場にある。

 

首長と議員が自治体としての意思を公式に決定できる権限をもつのは、選挙を通じて民意の審判を受け、代表者であるとみなされるからだ。もともと違う人間が別の人間の意見や利害を代わって表現する首長と議会が自治体としての意思を公式に決定できる権限をもつのは、選挙を通じて民意の審判を受け、代表者であるとみなされるからで、この擬制を現実に可能にしているのが投票箱だ。地域社会の諸問題に関して知識や判断力では不揃いな有権者が投ずる1票が、あの何の変哲もない箱を通過すると、神聖な1票に変わるのである。いわば投票箱は「民の声」を「天の声」に変えるマジック・ボックスと言える。この「投票行動」がより民意を幅広く拾い、適切な結果を生み出すようにサポートする仕組みが選挙に関わる様々な規定(ルール)と言えよう。

◆時代遅れのネット規制は見直すべき

話を江東区長選の例に戻そう。関係者によると、当選した木村氏の陣営は選挙期間(41622日)のうち5日間、動画投稿サイト「ユーチューブ」に「木村やよいに投票してください」などと呼び掛ける有料動画広告を掲載した。その動画の再生回数は約38万回でそれに対し掲載費用約14万円を候補者個人のクレジットカードで支払ったとされる。現在、公選法は政党や政治団体以外、本人や後援団体(特定の候補者を推薦し支持する団体)が時候、慶弔、激励、挨拶などを目的とする広告を有料で新聞、雑誌、インターネット等に掲載したり、テレビで放送したり新聞、雑誌に掲載してはならない、と規定している。確かに今回の木村事案は候補者本人が「私に投票して下さい」と呼び掛けているだけに、公選法規程に抵触する。このことは議論の余地はなさそうで、有料ネット広告違反として2年以下の禁錮か50万円以下の罰金に処されるものと見られる。

ただ、有権者からみて割り切れる話かどうか。「4月に選挙やったばっかりなのに再選挙か。それにかかる費用をすべて税金で賄うのは納得できない」「公選法違反で辞職した場合の再選挙は辞職した人に選挙にかかる費用を全額負担させるようにすべきだ」といった強い不満の声もある。ちなみに4月の江東区の選挙は区議選、区長選が一緒に行われており、22000万円の費用が掛かったとされる。仮にこの先、区長選だけの選挙を行うにしても投票所の数は同じだから、投票用紙を渡す選挙事務従事者は減るが人件費も含め億単位の費用が掛かるのは確実。この動きに区民が苦情を呈するのは当然と言える。

問題は、首長を選ぶ選挙にYouTubeを活用するなどDX時代にふさわしい方法をとることがノーなのかどうかだ。江東区は人口約50万人、有権者数417千人の大規模自治体だ。そこで首長候補は1週間でどれだけ人なり政策なり主張なりを知ってもらえるかどうか。その方法にSNSの活用を認めることの制限がどこまで必要かどうかだ。地方自治は政党政治を前提としてはいない。実際、首長の立候補者も無所属を名乗る者が多い。それに対し、現在の公選法はあかたも政党政治が前提であるかのように政党及び政治団体以外、有料広告は出せないとしている。組織を持つ政党か支援する政治団体の強力なバックがない者以外は当選可能性がない仕組みのようにも見える。

果たしてそうした政党など組織所属の者に首長適任者がいるかどうか。むしろ候補者の裾野を広げ幅広く適任者を求めるには、金額や方法の常識的な制限は課すにしても、いまのダメダメ規制、手足を縛っているような規制は大幅に緩和し見直すべきではないだろうか。時代遅れの規制を金科玉条のように振り回せば振りまわすほど、なり手は限られ、地方自治は萎えていく可能性が強い。これを機に基本に立ち返って地方自治にふさわしい選挙規制、知事、市区町村長という自治体の執行機関を選ぶにふさわしいネット規制のあり方について議論を深めるべきではないだろうか。