拙速な「議員定数削減」を問う
佐々木信夫
政治とカネをめぐる国民の目は厳しい。しかし、政治家はなるべくその目からこの問題をそらしたい。いま起きている「衆議院議員定数1割削減」はその際たるもの。少数与党の弱みを狙ったかのように「身を切る改革」を売りとする日本維新の会が連立政権参加の条件としてそれを打ち出した。国会議員の身に直接降りかかる問題だけに、与野党とも議員のうろたえぶりが見え隠れする。ホンネは変えたくない。建前は変えないと政権がもたない。見えてきたのは、いかにしてこの動きが改革につながることを先延ばしするかだ。
自民党と日本維新の会がいまの国会での成立を目指す衆院議員定数削減法案の原案が明らかになった。衆議院議員の現行定数(465)の1割削減を目標に与野党で協議し、期限の1年以内に具体的な削減方法で結論が出ても出なくても、2027年度以降に削減を実施することが柱となるようだ。原案では、現行定数を「420を超えない範囲で1割を目標」に削減するとし、衆院議長の下に置かれた与野党の協議会で具体策を議論すると定めた。議論には期限を設け、結論に基づく「法制上の措置」を1年以内に講じることとする。結論が出なかった場合、小選挙区選で25議席、比例選で20議席をそれぞれ削減することが自動的に決まる。
これに沿ってその後、衆院選挙区画定審議会(区割り審)が区割り改定案を検討し、政府に1年以内に勧告するため、実際の削減は27年度以降となる。一方、与野党で結論が出た場合も小選挙区で削減する場合は区割り審での検討が必要となる。政府への勧告は1年以内となるため、この場合も削減は27年度以降となる見通しだ。
たぶん、その前に衆議院解散、総選挙を行い、この動きをうやむやにする。そうした思惑を秘めての先延ばしではないか。筆者にはそう見えるが、違うだろうか。なぜなら、ホンネは定数削減も本当はやりたくないからである。いろいろ出ているが、なぜ定数だけ問題にするのか。選挙とカネはどうか。議員待遇が世界で一番高い日本。これを放置したまま、あたかも政治不信が議員定数であるかのような言い方をしているが、国民はそう見ていない。定数も待遇も選挙方法も全て見直すべきと見ているのではないか。
選挙は民主政治の根幹といわれる。選挙制度が確立したのは、先進国でも20世紀に入ってからだが、日本の場合、どうも戦後80年経っても国民の間に選挙が十分定着していないように見える。否、選挙離れが著しくなっている感すらある。どうしたものか。
日本の公職選挙法(以下、公選法)は、1950年(昭和25)に制定され、大きな改正のないまま現在に至っている。だがこの間、世の中は農村国家から都市国家へと大きく変貌した。ポスターを貼り、はがきを出し、街頭でのぼりを立てて演説するスタイル。これが続いているが、しかし、立ち止まって聞く人は少ない。インターネットが普及している情報社会にあっても、未だこうしたスタイルがベースになっている。公費助成を含め公選法の規定はそうだ。地盤、看板、カバンが揃わないと立候補できないのが現実だが、果たしてそれを用意できる人はどれぐらい居るだろうか。
いま起きている小規模市町村でのなり手不足は時代遅れの規定と関わっているのでないか。回を重ねるにつれ、国政選、地方選とも投票率が右下がり、5割を切るところまで落ちてきた。半数以上の人が投票に行かない社会。有権者の資格を18歳に下げてみてもそう変わらない。果たして、これが選挙は「民主政治の根幹」と言われる姿だろうか。
選挙には①代表者の選出、②政治への民意の反映、③業績評価の機会といった役割が期待されているが、果たしてこのいずれが機能し、いずれが機能していないか。どこに本質的な問題があるのか。
よく「選挙制度なんて、何だって同じじゃないか」という人がいる。しかし、本当にそうだろうか。じつは、選挙制度によって、その国の政治がガラッと変わってしまうことがある。代表を選ぶ方法は、国や地域によって様々である。有権者が投票所に行って自分が気に入った候補者名を書く国もあれば、全ての候補者に好きな順番を書かなければならない国もある。また、各々の選挙区でもっとも多い得票数を得た候補者が当選となる国もあれば、得票を政党別に集計して議席を割り当てる国もある。細かな違いまで加えると、国の数だけ選挙制度があると言ってもよい。
選挙制度は、①選挙区の大きさ、②議席の決定方法、③投票方法の3つを基準として分類するのが一般的だが、日本はどうか。衆議院選挙を例にみてみよう。今から約30年前、1996年9月まで戦後長らく日本の衆議院選挙は中選挙区制と称し、1つの選挙区から3~4人を選ぶ制度だった。しかし、1つの選挙区に同じ政党から2人以上立候補して戦う。特に自民党では党内派閥の勢力争いがひどく、1選挙区に2人以上公認する傾向があった。政党選挙というより、派閥選挙が顔を出していた。そこにはカネが飛び交う金権選挙も加わり、目に余るものがあった。
政治腐敗が蔓延した。そこで1993年発足の細川8党非自民連立政権は政治改革を大きなテーマとした。紆余曲折はあったが、94年に法改正し、96年10月から中選挙区に代えて、現在の「小選挙区比例代表並立制」(定員465)が実施されている。
政権交代可能な制度という触れ込みで始まったこの制度。確かにその通り、2009年8月の衆院選で民主党が大勝し、自民党は1955(昭和30)年の結党以来、初めて第一党の座を失い、民主党鳩山内閣が誕生。だが、政権交代が行われたとはいえ、菅直人、野田佳彦と毎年首相が交代するなど民主党政権は不安定で、わずか3年3ヶ月という短命で終わった。2012年選挙で政権は再び自民党に戻り、以後、自公連立とは言え自民党政権が続いた。そして2025年11月に自公に代わり自維政権となり現在に至っている。
この間、何度か衆院選が行われているが、この「小選挙区比例代表並立制」という制度は一体何を選んでいるのかよく分からない。年々おかしくなっているのではという批判も尽きない。当初、定員が1の小選挙区を全国で300設置し300名、さらに全国を11のブロックに分けて比例代表として200名を選出していた。その後、1票の格差の是正など3回の定員の見直しが行われ、現在の小選挙区289、比例代表176となった。
全国289の選挙区で各1名(計289名)を選ぶ「小選挙区制」と、全国11ブロックから各党の得票に応じ、候補者名簿の上位から順に176名を選ぶ「比例代表制」の二つを並行して行う制度となっているが、そもそも当初は重複立候補という意味不明の制度はなかった。否、例外として、少数政党に配慮し、小選挙区と比例区の「重複立候補」を認めてはいたが、それは例外中の例外という扱いだった。ところが、それから20数年経つうちに、今や比例区の87%が小選挙区落選、比例区復活という、重複立候補者で占められる事態になっている。立候補している政治家から聞くと、小選挙区1名だと当選可能性はないが、惜敗率で2位に食い込めば比例区復活当選がある。だったら出てみよう、議員に成れる可能性が大きいと歓迎するムードがある。
しかし、これが一般国民にどう映っているかだ。昔はやった春日八郎の「♪死んだはずだよお富さん!生きていたとは、お釈迦様でも知らぬ仏のお富さん!」という歌がある。正にそんな感覚ではないだろうか。重複立候補した人は小選挙区で当選できなくても、所属する政党が比例代表で議席を獲得した場合、当選できる。当選者は、事前に政党が選挙管理委員会に提出した名簿の順番で決まるが、小選挙区と重複立候補した人が複数いる場合は、同じ順位にそれらの候補者を並べることができる。同じ順位の中から当選者を決める場合は、小選挙区における「惜敗率」という考え方が使われる。ある政党の名簿1位に3人の候補が並んでいて、その政党の比例代表での獲得議席が1だった場合、小選挙区の惜敗率が最も高かった人が当選するという仕組みだ。
惜敗率は同じ政党の同じ順位の候補者の中で比較されるため、惜敗率が90%でも当選できない人もいるし、逆に50%でも当選できる人もでてくる。小選挙区で落選、比例区で復活、これを「復活当選」と呼んでいるが、2021年選挙の例でいうなら、その割合は87%にも上った。これが普通だと思う人達も増えているかも知れない。
しかし、狭域の「小選挙区」で選ぶ意味と、広域の「比例区」で選ぶ意味は全く違うはずだ。小選挙区だと地域の問題、ゴトー千ソングを歌うどぶ板議員が多く輩出されるが、それだけだと国会はいびつになる。そこで広域単位で選ばれる比例区当選者を約4割当て込み、ダブルスタンダードの代表制とした。だが、年月が経つうちに比例区当選者の多くが、そもそも小選挙区での当選を目指した人の塊だとすると、どうだろう。小粒な地元代表のような国会議員しか出て来ないのではないか。
小選挙区だけだと1対1の勝負になるので「死票」が多く出て、民意を鏡のように反映するのはむずかしい。たまにオセロゲームのように政権交代は起こりうるが、負けた方の死票が生きない。そこで比例区との重複立候補を認め、小選挙区で惜敗率が高ければ比例区の政党得票数の枠内で当選できるという形にした。だがこれはあくまで例外的な措置。今のようにここまで重複立候補者が増えると、「比例区」とは一体何のためにあるのか意味不明になってくる。
端的にいうと、これでは小選挙区の落選者「救済制度」ではないか。議員が身内同士でかばい合う制度では。ちなみに比例区の「単独立候補者」当選者は13%のみ。重複立候補者87%とそれは質的にどう違うのか。全国を11に分けたブロック単位の比例区は単に小選挙区の補完、救済のためにあるということになる。3名当選の小選挙区が8つ、2名当選の小選挙区が110、1名当選の小選挙区が171で、小選挙区比例復活者が126名に上り、比例区単独はたったの50名に止まる。そう変質している。
元々はそうではない。設計当初は、人口40万人単位の地域を代表する小選挙区から300名、東北、九州など11の広域ブロック(ある意味「州」)から政党別投票率で選ぶ180名を組み合わせて衆院の多様性を担保しようとしたはずだ。小さな地域密着の視点を持つ人材と、広い地域で広域の視野を持つ質の異なる人材を組み合わせることで、衆議院に正しい民意を持ち込もうとしてできたのが本来の制度趣旨である。ここが大きく変質してしまった今、このままでよいはずはない。
国民の選挙に対する関心は下がり、投票率も右肩下がり。まもなく50%を切るところに来ている。これを基本に立ち返って変える時ではないか。小選挙区は小選挙区で比例区重複立候補は認めない、ブロック比例区は比例区のみの立候補で小選挙区との掛け持ちは認めない。それぞれの持ち味を持った者が当選してくる。この原点に戻すことが必要ではないか。
もう1つ、区割り変更の影響を見ておこう。2024年10月に大きく区割り変更が行われた後の初めての衆院選が行われた。結果はご承知の通り、与党の過半数割れで少数与党の状況にある。この衆院選は、多くの選挙区(1,996エリア)で境界変更が行われた。その結果を分析したある研究を見ると、地域においては投票率が高まる傾向があるという新たな視点が示されている。
この現象は、境界変更に伴い、従来型の『地盤・看板・カバン』に代表される既存勢力への依存度が弱まり、有権者が新たな判断基準を用いて候補者を選択したためとみられている。特に、現職の有力候補者が不在となった地域では、有権者が候補者個人の実績や地域内での人間関係に依拠せず、政党のイメージや掲げられた政策内容に基づいて投票行動を決定した可能性が高い。
こうした「しがらみのない候補者同士」による競争環境では、従来型の地域密着型選挙から政策本位型の選挙へと争点が移行し、有権者が政党や候補者の政策的方向性をより明確に意識する状況が生まれたといえる。境界変更がもたらした選挙の質的変化を踏まえ、有権者の政策判断を促進し、より公平で透明性の高い選挙制度の実現に向けた検討が必要となろう。
このように小選挙区制は、バラ色の制度ではなかった。しかし、これで政治家が小粒になったと言っても、三角大福中の時代から日本人の素質や能力が低下しているのではない。政治家になるチャネルが細くなり、かつ素質や能力を磨かなくても済むシステムになっていることが問題なのだ。世襲議員を含め、いま公認を得ている人達から改革の声は上がらないだろう。議員定数も問題だが、そもそも論でいえば選挙制度の再検討の方が先ではないか。
選挙にカネのかからない仕組み、議員の待遇は世界標準にするといった、多面的な改革をしてこそ、政治改革の名に値する。そこがスポッと抜けて、ただ議員定数削減だけが独り歩きする。これで政治がよくなるとはとても考えられない。国会議員任せではダメ。広く民意の参画する方法で、政治改革を行うべきだ。そうした方向に向く新たな世論の形成を期待したい。
0 件のコメント:
コメントを投稿