2022年2月4日金曜日

評伝「石原都政」が変えたもの

石原慎太郎氏が亡くなった(以下敬称略)。氏は戦後都政で鈴木俊一(4期16年)に次ぐ長期都政だった(4期13年半)。“東京から日本を変える”で大きな足跡を残した。

99年に始まる石原都政の政治手法は小泉純一郎のそれと相似していた。敵(守旧派)をつくり、敵を倒す正義(改革派)こそ我にあり!という戦法だ。国の官僚を目の仇にし、独自の政策を展開。時には思いつき、独善と言われながら有権者の心を掴むのはうまかった。

財政再建、銀行税創設、ディーゼル車規制、職員削減、羽田国際化、外郭環状道着工、公会計改革、東京マラソン、五輪招致、築地の豊洲移転の決着と現都政に脈々と生きている。

しかし、強さは反面、弱さにもなる。石原の残した主要政策の多くは都庁官僚の総力で生まれたものではない。あるものは一局長と、あるものは一副知事と、あるものは一橋大ブレーンと、時には国会の旧友など、側近政治と言われる少数の手で創り上げたられたもの。 

結果、都庁官僚に「待ちの風土」が蔓延し、都庁全体が内発力なき上命下服の組織風土に塗り変わった。人材は今でも育っていない。若い頃、都知事選で美濃部亮吉に敗れた石原が嫌うのは、美濃部都政との比較だった。コワモテの石原とスマイルの美濃部。そもそも持ち味が違うが、美濃部が「東京燃ゆ」という職員参加の風土をつくり上げた点と比較し、石原は都政に一体感をもたらすことはできなかった。

とはいえ、タブーに挑戦し、積み残されてきた重い課題に次々解決の糸口を与えた点は高く評価される。総じて弱肉強食の都政と評する向きもあるが、時代背景がそうさせた部分がある。小泉政権と表裏一体で進めた不良債権の処理、構造改革路線は景気回復につながり、超高層ビルの林立する大規模開発を進めることができた。

もとより戦後都政が副都心育成など分散型都市づくりをめざしたのに対し、石原は集中型都市づくりへ急カーブを切った。これがますます東京一極集中を加速させているように見えるが、人口減の続くこれからの日本で果たして吉と出るか凶と出るか、注目される。

#東京一極集中 

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